田名網敬一先生のこと

田名網敬一先生にインタビューしたのは2020年のこと。当時渋谷2丁目にあったNANZUKAで開催されていた個展会場にうかがって、新作の木版画について話をうかがった。この木版画は浮世絵の制作技術を受け継ぐアダチ版画研究所の職人たちが制作したもので、要は「田名網敬一と浮世絵」について話していただきたかったのである。

先生は北斎の浮世絵からのモチーフの引用について、特に「橋」というモチーフについて語ってくださった。僕はいつになく緊張していて、質問のたびに声が上ずる体たらくだったけれど、先生はとても優しく、弱小媒体の取材にもかかわらず、取材当日、ご自宅から浮世絵の本を何冊も持ってきてくださり、具体的な作品を示しながら丁寧に一つ一つの質問に答えてくださった。

先生の作品にたびたび登場する太鼓橋のイメージソースは、北斎が描いた亀戸天神の太鼓橋だそうだ。橋は二つの場所をつなぐもの。そして、非現実的な勾配の北斎の橋は「渡れない橋」の象徴でもある。つまり橋というモチーフは、先生にとって、生と死の二つの世界を意味するものだと語ってくださった。また幼少時の遊び場であった目黒雅叙園内にあった太鼓橋の記憶も、そこに重なっているらしい。

葛飾北斎「諸國名橋奇覧 かめゐど天神たいこはし」The Metropolitan Museum of Art

北斎の浮世絵と、橋の表象と、田名網先生ご自身の幼少の記憶をつないだ記事を、先生は喜んでくださった。2年後、原宿の個展におうかがいした際、僕のことを覚えていてくださったのには驚いた。そのときはただ二、三言交わしただけだったけれど、あのときの記事に満足くださっていたことが、先生のご様子から改めてうかがえた。

そして迎えた2024年、国立新美術館での大回顧展「田名網敬一 記憶の冒険」。内覧会の日、会場に入って最初の部屋で、僕は嬉しくて声を上げそうになった。プロローグとして掲示された先生の文章は、まさに「橋」に関するものだった。北斎の作品についても字数を割いている。先生のご活動の集大成とも言える回顧展の、序章を飾る大切な言葉を、僕は4年前、直接ご本人から聞けたのだった。

田名網先生は、2020年以降もアダチ版画研究所との木版画制作に積極的だった。翌年には太鼓橋を描いた2作目を発表し、今回の大回顧展に合わせて、さらに3点の新作をリリースした。3点のうち2点に、やはり橋が描かれていた。国際的に活躍する田名網先生にとって、「北斎の浮世絵の引用」と「日本の伝統技術でつくられた木版画」は、世界中のファンにストレートにメッセージが伝えられるモチーフやメディアであり、出版ごとに反響も大きかったのだろうと想像する。

そして田名網先生は、回顧展の準備の最中にも、アダチ版画研究所からの依頼で、アダチ伝統木版画技術保存財団(同研究所が母体となって設立された財団)の設立30周年の記念品のために作品を提供していた。それは代表的モチーフのひとつである金魚を描いた小品で、展覧会の出品作をアレンジしたものだった。さらに田名網先生は、同作の背景違いの木版画の制作をアダチ版画研究所に逆依頼し、自身の回顧展の引出物とした。

しかし残念ながら先生は、回顧展の内覧会の日、参加者に直接その引出物を渡すことはかなわなかった。8月7日に展覧会が始まって2日後、田名網先生は「渡れない橋」を自ら渡ってしまわれた。

新作木版画3点のうちの1点のタイトルは「橋上のランデブー」。渡れなかったはずの橋は、いつしか逢瀬の場所となっていた。「田名網敬一 記憶の冒険」展のプロローグに掲げられた、田名網先生の言葉を一部引用したい。

俗なるものと聖なるものの境界であり、今生の世界と死後の世界を分けるのが橋だとすれば、その一方で出会いの場所ということもできる。(『田名網敬一 記憶の冒険』p.12)

先生はこの文章を書いているとき、ご自身が橋を渡る時のことを考えていたのだろうか。NANZUKA代表・南塚さんは追悼文でこのように記している。

田名網は生前に、自身の最近のアニメーションやペインティング作品を称して、「(自分が)死後に住む世界」だと説明をしていました。きっと、田名網の魂は、この自ら築き上げた極楽浄土で、妻や友人、そして魑魅魍魎たちと楽しく、永遠に生き続けることと思います。そして、この先田名網が心血を注いだ作品の数々が美術の歴史と皆様の心の中に生き続けることを、私も切に願っています。NANZUKAウェブサイトより)

・・・

いま、僕の部屋には、アダチ伝統木版が技術保存財団の記念品の木版画が飾られている。同財団では黒いマットに銀の棹の額、というシックな額装をしていたけれど、僕はこの金魚を水槽の中で泳がせてあげたいと思っていた。それでアクリルの加工を行っている会社にセミオーダーしたアクリルボックスの中に作品を入れた。その際に、マットも蛍光ピンクのものに変えてみた。

田名網先生のお祖父様の家には、大きな水槽があって、先生は幼い頃、爆撃の光を乱反射しながら泳ぐ金魚の姿を眺めていた、と語っている。先生の脳裏に焼きついたイメージに、額装でより近づけないかと思った。戦時中、金魚を飼って拝めば、爆弾で死ぬことはないという迷信が広まっていたと云う。そんな悲しい歴史を、決して忘れないように。

先生は奇しくも長崎に原爆が落ちた日に亡くなった。爆弾のような金魚に「DO NOT BOMB」の文字。先生の一周忌に、この作品のメッセージを改めて噛み締めている。

[和樂web] レポート

『小学館の図鑑NEOアート はじめての国宝』に携わらせていただき、編集会議に何度か参加させていただいた。その会議が毎度あまりに面白くて、「なんらかの形で図鑑のメイキングも紹介できると良いですよね」などと話していたところ、小学館の「和樂web」に「はみだしNEOアート」という連載が設けられた。

自分の他、各地に取材に行った3名が、それぞれ自由に思い出を綴った。自分は「目白漆学舎」に通ったひと夏の思い出を。ぜひご覧ください。

百年後芸術祭

千葉で芸術祭が開催されている。が、公式ウェブサイトを見ても、いまいち、いつどこに行けば何が見られるのかが分からない。気づいたら会期終了近かったので、とりあえず出かけることにした。どうやら内房総アートフェスというのが、公共交通機関と周遊バスを乗り継いで回れるようだ。ルートは、往路の電車の中で考えた。

週末、以下のルートで周った。

09:06 五井駅
   ↓小湊鉄道
09:35 上総牛久駅
    インフォメーションセンターでエリア鑑賞券購入。
    駅周辺の7展示を鑑賞。
10:24 上総牛久駅
   ↓小湊鉄道【急行】
11:09 月崎駅
    インフォメーションセンターで個別鑑賞券購入。
    「森ラジオ ステーション」を鑑賞。ベンチで軽食をとる。
11:33 月崎駅
   ↓周遊バス 東コースB
11:38 旧里見小学校
    入口でエリア鑑賞券購入。校内の7展示を鑑賞。
    SATOMI HIROBAで、生いちごミルクを飲みながら芸術祭のレビュー記事を読む。
12:52 旧里見小学校
   ↓周遊バス 東コースB
12:58 里見駅
    駅に併設された売店・喜動房倶楽部で野菜を買い、駅前のベンチでおやつタイム。
13:28 里見駅
   ↓小湊鉄道
14:13 五井駅
14:19 五井駅
   ↓JR内房線
14:41 木更津駅
    インフォメーションセンターでエリア鑑賞券購入。
    駅周辺の4展示を鑑賞。アーティストの槙原泰介さんとおしゃべり。
17:00 帰路につく

越後妻有と同じく、やはり車が無いと、なかなか効率よくは廻れない。ただ、その非効率の中で生まれる隙間の時間に、地元の方と他愛ない会話をしたり、ぼうっと景色を眺めたりできたのがとても良かった。

今度、槙原さんに木更津の干潟を案内してもらいたい。小湊鉄道もまた乗りたい。

誰も住めない家

近所の某地に、築50年の中古物件が900万で売りに出た。それまで自宅を購入するということは考えもしなかったが、ふとそういう選択肢もあるのではなかろうかと内見を申し込んだ。リフォームは必須だったが、築50年の割には綺麗で、家も庭も広かった。新京成線の駅からも徒歩10分。ただ、いくつか不明瞭な点があり、不動産会社の担当者に聞いたものの、その回答は要領を得なかった。そこで自分で調べてみることにした。

900万という破格の理由は、某地が「市街化調整区域」であることに起因している。本来、市街化調整区域に住宅は建てられない。現今の住宅は、50年前に特例で建てられた家であり、現在は同じ場所に住宅を建設することは出来なくなっている。ただ、リフォームをすればまだまだ住めそうだから、900万はかなりお得だ。市役所の「都市計画課」に電話で問い合わせると、某所の謄本を入手して「住宅政策課」の窓口に行くことを勧められた。契約を急かす不動産会社の担当者を適当にあしらいつつ、六月の晴れた日に、法務局と市役所に足を運んだ。

法務局で、件の土地と建物の「登記事項証明書」と「測量図」を入手し、市役所の住宅政策課に向かった。窓口の若い男性は、某地に家が建った時の資料を出してきてくれて、丁寧に説明してくれた。そこから分かった内容は概ね以下のとおりである。

1963年、畑だった某地の所有者・F.T氏が、自宅の建設許可を市に申請した。そうして市街化調整区域内の某地は「F.T氏の住居」としての使用を認められた。F.T氏の同居人以外が某地を住宅とすることは、この書面では許可されていない。F.T氏が亡くなり、その権利は子供二人に引き継がれたが、二人はそこに住むことなく、15年ほど某地を持て余した末に売却した。それを東京都内の不動産会社が今年の初めに買い取った。結果、この土地に住むことが出来る人間は、この世の中に居なくなった。僕が内見したのは「誰も住めない家と土地」だ。この土地の今後の活用法は、家を解体して畑に戻すか、駐車場にするか、資材置き場にするか、くらいである。

とはいえ、まだまだ住めそうな家である。実際、不動産屋も住居として販売していた。僕のように市役所まで話を聞きに行かず、キャッシュでさっと900万払って、リフォームして住むことは出来てしまいそうだ。そもそも「誰も住めない家」が建つ某所に、住民票を移すことは出来るのだろうか。近所の支所の窓口に行って聞いてみた。結論から言うと、出来てしまうらしい。転入届を支所の窓口で提出する際、窓口は一つ一つの土地の歴史を逐一調べ上げるわけではない。「市街化調整区域」であっても、現状「宅地」となっている番地であれば、そのまま住民票を移してしまう、というのである。(勿論、あの支所の窓口の数名は、僕の問い合わせによって某地の事情を知ってしまったので、もし某地への転入届が提出されれば、受け付けることは出来なくなるとのことだった。)

なんとも不思議な話であるが、知らぬ存ぜぬで住むことは出来てしまうのである。歯切れの悪い不動産会社の応対も、要はネガティブな情報はなるべく掘り返さないまま売ってしまいたい、ということだろう。900万は安いが、やはりそれなりのリスクを負う物件だ。ローンが組めるか分からないし、災害や事件など万一のことが起きた時の保障が無いように思った。不動産会社に無理な値切り交渉を切り出して、話を了えた。ただ、なんの面識もない一家の土地と家の歴史を、法務局と市役所に行って千数百円で知ることができたのは、なかなか面白い経験だった。

[北斎今昔] インタビュー

ボストン美術館で開催中の「Hokusai: Inspiration and Influence」の展示作品がバラエティに富んでおり、話題になっている。学芸員のセーラ・E・トンプソンさんにインタビューをした。取材を申し込んでから公開まで、だいぶ時間がかかってしまったが、他媒体からも何件か取材依頼があった中で、とても丁寧に回答いただき、展覧会の広報用画像も一式ご用意くださった。感謝、感謝。

レゴ®️の大波と羽生結弦の写真がボストン美術館で共演!? 話題の北斎展・担当学芸員ロングインタビュー|北斎今昔
https://www.adachi-hanga.com/hokusai/page/enjoy_154

内房の残花

相方が「富浦に行きたい」と言ったのは、昨年転職を果たした後のことだったろうか。富浦には、千葉県が運営する児童養護施設「富浦学園」がある。片親だった相方は、五歳くらいの頃そこで暮らしていた。どういう心境の変化か、思い出の場所に行ってみたいのだと言う。行って何をするという訳でもない。今更相方を知っている職員も居ないだろう。ただ周辺をぶらぶら歩いてみたいと言う。

行く先々で酒を飲んでしまう我々は公共交通機関で移動する他ない。真冬の富浦を歩く気には到底なれないので、春になったら行こうと決めた。段々と暖かくなってきたので、日曜日の夜に亥鼻公園のさくら祭りに立ち寄り、八幡宿で一泊して月曜日に富浦周辺を歩くことにした。

 

亥鼻公園の「千葉さくら祭り」は、ふらりと夜桜見物に立ち寄るには丁度良い規模だった。道すがら缶チューハイを買って公園に行き、屋台でつまみを買って食べた。城郭の格好をした郷土博物館に、いつになく相方が興味を示していた。先週末に近隣各所で開催された桜祭りはあいにくの天気であったから、良い花見となった。

その後、本千葉から八幡宿に移動した。かつて内房薬湯健康センターと言われた駅前の建物が、今は24時間営業のスーパー銭湯になっている。森下仁丹の開発した刺激のある薬湯が売りの銭湯で、五井で育った相方は若い頃ここによく通っていた。併設の食事処が旨いのと、刺青を入れていても入浴できるので、日曜日の夜にもかかわらず客は比較的多かった。一っ風呂浴びて夕飯を食べ、その日は早めに寝た。

 

翌日、朝風呂の後、坂本龍一の訃報とRYDEENのサビを繰り返す朝のニュースを見て、コーヒー片手に駅前の飯香岡八幡宮の境内を歩き、内房線の列車に乗った。木更津駅で一旦降りて駅前を少し散策し、蕎麦屋で朝飯にあり着く。相方が十代だった頃の盛り場の面影はもはや無く、駅前の「KISARAZU Humming St」と記されたアーチ看板の向こうには、ただ駐車場が広がっていた。新年度初日、人影まばらな駅前ロータリーを、新入社員と思しきスーツ姿の若い男女の集団が通り過ぎて行った。

ふたたび内房線に乗って一時間、富浦の駅前は驚くほど寂れていた。相方の記憶では、駅前の通りにはそれなりに商店が並んでいたと言う。記憶違いではないかと思うほど、駅前の通りは何も無かった。ひとまず海辺に向かい、富浦唯一の観光スポットと言って良い原岡桟橋を歩いて、国道に出て富浦学園に向かった。

 

富浦学園は森に囲まれるようにして建っている。国道から学園に続く道を歩いていくと、向かい側から富浦学園の職員らしき男性が歩いてきて「この先は行き止まりですよ」と言う。男性は、平日の昼日中に学園目指して歩いてくる中年二人を明らかに訝しんでいる。無論、我々もこの物騒なご時世に学園内に入れるとは思っていなかったが、この様子では周囲を散策するのも難しそうだ。「昔ここにいたんです」という相方の言葉にも無表情な職員を前にして、我々は踵を返す他なかった。

今回の旅の目的だった学園訪問は、余りにも呆気なく終わった。20メートル程先に眺めた学園の雰囲気は、相方の記憶とは異なっていたという。相方の記憶の中の富浦の面影は、街のどこにも残っていなかった。気を取り直し、菜の花畑と小さな桜並木を越えて、千葉県内の道の駅第一号という「道の駅とみうら 枇杷倶楽部」に辿り着き、寿萬亀のワンカップを開けアジ尽くしの昼食を取り、富浦駅へ戻った。

 

帰りの列車を待ちながら、相方が駅前の更地を見つめてぽつりと言った。「母ちゃんが面会に来た時、この駅前にあった喫茶店でオムライスとロールキャベツを食べさせてくれた」

ああ、そうか。相方がオムライスがやたらと好きなのは、その味が「母ちゃん」の思い出に結びついているからなんだ。相方はその後、母親と姉と三人で一緒に暮らすことになるが、生活は決して楽ではなく、居場所を転々とした。そうして相方の母親は若くして亡くなってしまう。

 

まだ春休みの学生も多いのか、横須賀線直通の内房線はそこそこ乗車客があり、沿線の桜の残花をのんびり眺める雰囲気も無く、二人とも酔い心地でうとうとしている内に船橋駅に着いた。別れしな、相方は今日撮った写真のデータを送って欲しいと言った。

***

翌日、自宅でGoogle Mapの過去のストリートビューを見たところ、2014年の富浦駅前の写真に「佐藤商店」と「みます屋」という店舗が写っていた。佐藤商店は陶土を販売する店だったようだが、その2階部分に「喫茶 チェリー」という看板の文字を確認できた。外観は相方の記憶と一致した。少なくとも10年前に、建物は残っていたのだ。

その後ネットで色々と調べていくと、漫画家の羽海野チカが『ハチミツとクローバー』所収のコミックエッセイの中で、富浦を訪れていたことも分かった。早速該当の箇所を見てみたが、「ポツンとコンビニのような小さいお店が1軒あるだけの海の香りのまったくない小さな駅」と記している。おそらくこの「小さいお店」は「みます屋」を指している。これが、最古のストリートビューからさらに10年ほど遡る2003年頃だ。おそらく相方の思い出の喫茶店は、もう長いこと営業していなかったのだろう。

 

南房総市がウェブ上に公開している資料によれば、富浦の町は1990年代に入り観光地としての人気に翳りが見え始め、急速に賑わいを失い、人の流出が進んだらしい。Google Mapの2014年のストリートビューには、辛うじて駅前の通りに、特産の枇杷を模した愛らしい街灯が並んでいるが、それも2018年の写真からは消えている。そうして街の往時の面影を一掃したのは、2019年の台風被害だったと考えられる。

光あふれる房総のリゾート地に建てられた県営の児童養護施設。その街が最も華やかな時代に、相方は一年余を過ごした。そうして時々会いに来てくれる母親と駅前の喫茶店でオムライスを食べた記憶は、40年経った今もだいぶ鮮明のようだ。だが、現地にはもはやその記憶に繋がるものは何も残っていない。

いつになく、2023年春に自分が歩いた彼の地のことを、書き記し残しておこうと思った旅だった。

 

[書籍・堀本達矢作品集] 対談記事

ケモノ美術家・堀本達矢さんの作品集『Meet the KEMONO: eye contact』(美術出版社)収録の対談の執筆を担当させていただいた。このお話をいただくまで、ケモノというカルチャーについてはまったく知らず、事前に堀本さんと竹藤さんが送ってくださった資料を読んで勉強した。アバターを介したコミュニケーションが日常になりつつある現代において、とても興味深いカルチャーであると感じた。

対談は昨秋にオンラインで行った。昨夏は、名古屋市博物館の「もしも猫展」で擬人化の歴史に触れ、渋谷で開催された「よそおうのこれから」展でケモナーの方が登壇するトークイベントを拝聴し、広重美術館が開設したメタバース上の美術館で動物の姿になって作品を鑑賞していた。さまざまな体験の中に、擬人化/擬獣化という行為が潜んでいた。従来の重厚な彫刻の素材を用いず、毛皮を脱いだ堀本さんのケモノは、ヴァーチャルとリアルが交錯する現代社会の空気を恐ろしいほど吸い上げたケモノなのだと感じた。

堀本さんはとても謙虚で真面目な方だった。竹藤さんは、そんな堀本さんを心から応援していた。数時間に及んだ対談からは、二人の信頼関係がよく伝わってきた。お二人の和やかな対談の雰囲気は極力そのままにしたいと思いつつ、方々に展開した話題の膨大な情報量は、ある程度整理せざるを得なかった。記事を組むにあたっては、海外の読者がいる(いずれは英訳されるかも知れない)ことを想定して情報を整理してみた。


対談のタイトル「曖昧な「ケモノ」の輪郭をなぞる」は、僕が考えたいくつかの候補の中から堀本さんと竹藤さんがお二人で選んでくださった。芯材の上に石粉粘土で整形していく堀本さんの制作工程から、ケモノという存在の輪郭を懸命にとらえようとする表現者の指先をイメージした。

数日前に自宅に作品集が届いて、しばし見惚れてしまった。デザインと編集の力が、作品の魅力や隠されたテーマを見事に引き出している。あまりの出来の良さに、それまで取り掛かっていた作業を放って、編集部に感激を伝えるメールを送ってしまった。もちろん、堀本さんのこれまでの不断の努力があればこそ、今回の作品集刊行の機会を最高のタイミングで迎えることが出来たことは言うまでもないだろう。刊行記念展は銀座 蔦屋書店で2月8日まで。

款冬華

亜欧堂田善展を開催中の千葉市美術館で「浮世絵ウィーク」という名のイベントを開催していたので、出かけてみた。朝、千葉神社で今年のお札をいただき、美術館に向かった。さや堂ホールでちょうど飴細工師の実演が始まったところで、子供たちに混じってウーパールーパーの飴をつくってもらった。

その後、亜欧堂田善展を観覧して、髪結師の実演を見た。昨日のお目当てはほぼこの実演である。昨今は元結も入手しづらく高価なのだという。顔の皮が引っ張られてしまうのではないかというくらい、何度も髪をまとめ上げ、かもじを足し、また縛り上げといった工程が長く続いたが、終盤であれよあれよという間に形を変え、見事な横兵庫が完成した。

浮世絵版画の摺の実演までしばし間があったので、地下のちょい呑み処に降りて「東魁」をいただいた。さや堂ホールに戻って、実演の様子を撮影する。この日の実演会は英語での解説で、留学生と思しき参加者が数名いた。終了後、千葉中央駅の方へ向かい、かどやで飲んだ。途中から、店主の澤永真佐樹氏に随分とからまれた。久しぶりの飲みニケーションは楽しかったが、周囲はいささか辟易していた。

雉始雊

予約していた坂本龍一の最新アルバム「12」が届く。ジャケットは李禹煥。YMOの高橋幸宏氏の訃報が流れたのが15日。少しずつ、少しずつ、時代が変わっていく。見知ったものが徐々に失われ、目新しいものが徐々に増えていく。時代の新陳代謝を、見つめる音なのかも知れない。

[北斎今昔] 展覧会レポート

太田記念美術館で1月5日より始まった企画展「浮世絵と中国」のレポート記事を執筆した。興味深く意義あるテーマであると同時に、展示として見せるのは難しいテーマだとも感じた。たかだか一世紀半の間に、日本人の中国に対するイメージは余りに変わってしまった。人間の価値基準は、とても心許ない。

「菊慈童」が日本人が創作した中国の伝説だということを知った。電子書籍で岩波新書の『唐物の文化史 舶来品からみた日本』を購入した。折を見てきちんと読みたい。

江戸っ子が夢見た異郷の文化「浮世絵と中国」展レポート|北斎今昔
https://www.adachi-hanga.com/hokusai/page/enjoy_137